科学研究とメディアの関係|記事の情報元は明記されるべき

新聞の信頼性

昨日の記事に関連して、新聞(およびニュースサイト)の情報についてのインタビュー記事を見つけたので、一部紹介します。

科学研究とメディアの関係はどうあるべきか?社会心理学者の三浦麻子教授インタビュー|GIGAZINE

このインタビュー記事は非常に長いので、今回取り扱うのは記事の終盤、Twitterの埋め込みがある箇所以降の内容についてです。

ソースを出さないメディア

信憑性を確かめる術はいらないというのは、違和感

関西学院大学の三浦先生が日頃から違和感を感じているのは、世に出ている記事の多くには、情報の出処が明記されていない、ということです。よく取材を行ってから記事にしているにも関わらず、記事内で元の論文を示さない理由を記者に尋ねてみると、記者曰く「それは読者は求めていないから」だそうです。

ソースへのアクセス性は担保されるべき

しかし、それに対して三浦先生は以下のように述べています。

研究は、「こういうデータの取り方をしたからこそこういう主張になっているんだ」というプロセスがちゃんとわからないと、その記事の中身を判定できないと思います。ソースが英語の論文だった場合、論文を見て判断できる人は少ないかもしれないけど、それを出すべきです。新聞記者が書いていることと、実際にある研究や論文の中身には絶対に距離があるので、それを知りたいんです。

私も全く同じ想いです。元の論文まで行ってチェックする人が、どれほどいるかはわかりませんが、そこへのアクセスは確保しておくべきだと思います。

真偽はわかりませんが「新聞記者は自分の記事のネタ元を隠したがる」とも書かれています。このような理由により、読者はソースへのアクセス性が担保されていないという現状があります。

伝言ゲームのように意味が失われていく

新聞記事の大抵は最終的な本人の了承を取らないので、発行されてから「うわぁ……全然違うことが書いてある」と思うこともあるわけですよ。(中略)例えば、協調性に関するセルフエフィカシーと書いたら文字数が多いので協調性にしてしまうとか。そして、後でプロが見ると内容がおかしくなっているんですよね。

そして、このような現象は、紙面の都合で字数制限がある新聞では、回避が難しいとも書いてあります。

その領域の専門家以外の人にとっては、「内容のここは省略可能だけど、この言葉は削ってはいけない部分」ということは分からないのが普通です。それによって、正確な表現が失われていき、最悪の場合は(意図的ではないにしても)真意が歪められてしまう恐れがあるというわけです。

せめて「ここに発表した」とかだけでも書いてくれていたらいいんですけど。最近はオンラインに出ている論文も多いので、GIGAZINEさんみたいにリンクしてくれたら、とてもうれしいです。

そのときに新聞みたいに大きな影響力を持つメディアがその努力をしなければ、もし「そういうことを読者は求めていない」と元情報へのアクセスを断ってしまえば、読み手は情報の手がかりを得るチャンスを失います。「調べて理解する」という経験をさせないと人は永遠に学習しませんし、経験をさせないような形で報道するのはおかしいと思いますね。

記事と元の情報の間にある距離を確かめるためにも、情報源を明記することは必須だと思います。

それでも信頼されている新聞

先日、発表された「平成28年 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」で報告された各メディアの信頼度では、新聞が最も信頼されているという結果が出ています。

H28各メディアの信頼度では新聞がトップ

多くの人が新聞を信頼しているようですが、今回のインタビュー記事を参考にすれば、たとえ新聞であっても、必ずしも的確に内容が伝えられている保証はありません。もちろん、すべてがダメと否定しているわけではないですが、どのメディアにおいても一定数の質の低い情報が混ざっていることは確かなことです。

何を信じればいいのか?

本にだまされるなと言って、新聞も信頼してはいけないと言って…、じゃあ、何を信じればいいのか?という声が聞こえて来そうです。それに対する答えは、上の引用文で三浦先生が述べていることがヒントになります。

『「調べて理解する」という経験をさせないと人は永遠に学習しません』という内容です。新聞であっても、ネットであっても手放しで信用していいものは無く、疑問に思ったり違和感を感じたものに関しては、自分で元となる情報源にアクセスして理解を深めなければなりません

これは手間のかかる作業かもしれませんが、自分が不利益を被らないためにも、この『学習』は省いてはいけないことだと思います。