他人の誤りを,戦略的に指摘しないという選択肢を持っておく
他人と会話をしていると、時に相手の誤りに気付くことがあると思います。そんなとき、あなたならどうしますか?すぐに相手の間違いを指摘しますか?それとも、気づかなかった振りをして流しますか?
今回は、パーソナルトレーニングのセッション中の会話を想定して考えてみます。クライアントと長期的に信頼関係を築いていくために、相手の誤解や間違いにどう接していくかというのは、大切なポイントのひとつだと思っています。
例えばクライアントが、どう考えても業界内では評判の悪いメソッドや会社を賞賛するような発言をしていたり、反対に十分に効果が認められているアプローチなのに、ある種の誤解のせいで必要以上に否定的な意見を持っているというような場面に遭遇することがあります。
あるいは、インナーマッスル・アウターマッスルの認識が正確ではないために(一般的には気にするほどではないのだろうけれども、専門職からすると)言葉の使い方が適切ではないと思われる場合など、専門性に関わる誤り・勘違いは山ほどあります。
そういったことに気が付くと、ついつい「ちょっと待ってください、実は違うんですよ…」と切り出したくなるものです。そのテーマに自分が詳しければ尚更です。できることなら、片っ端からすべて訂正していきたいくらいです。
専門職という立場上、とにかくクライアントに正しい知識を提供することこそが正解だと考えていた時期もありました。しかし、正しい知識が必ずしも正しい行動への変容を導くとは限らないことを考えると、その一辺倒のやり方では上手くいかない場合もあることに気付きました。
もちろん、その場で訂正しておかないと、重大な損失があると思われる場合、これは迷わず正しい情報を提供する方が良いと思います(例えば、「○○だけダイエットが良いと雑誌に書いてあったから、気になってるんです。良さそうですよね。」など)。
しかし、緊急性のない誤りに出くわした時、どう処するかは難しい問題だと感じています。
誤解は,相手への思いやりをもってして,はじめてとける
誤解は、議論をもってしては永久にとけない。気転、外交性、慰め、いたわり、そして相手の立場で同情的に考える思いやりをもってして、はじめてとける。
デール,カーネギー(1999)『人を動かす』(山口博訳)創元社,p.164
このことは『北風と太陽』の童話を通して、多くの人が知っていると思います。強引に知識を押し付けても、その人の思考や行動は変わらない、ということを。
相手の意見を軌道修正したい場合は、間違いに真向からぶつかっていくやり方はベストではないということです。
議論に勝つ最善の方法は、この世にただひとつしかないという結論に達した。その方法とは-議論を避けることだった。(中略)議論に勝つことは不可能だ。もし負ければ負けたのだし、たとえ勝ったにしても、やはり負けているのだ。なぜかといえば-仮に相手を徹底的にやっつけたとして、その結果はどうなる?-やっつけたほうは大いに気をよくするだろうが、やっつけられたほうは劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ、憤慨するだろう。-「議論に負けても、その人の意見は変わらない」
デール,カーネギー(1999)『人を動かす』(山口博訳)創元社,p.159
対策|誤りを指摘したくなったら?
他人の間違いを訂正することが、必ずしも(お互いの)幸せにつながらないことを理解した私は、どうすれば「誤りを指摘したい気持ち」をコントロールできるか考えました。そこで、いまのところ私が採用している方法は、一呼吸置くということと、誤りを観察対象にするということです。
1.まずは一呼吸置いて,自分に問う
相手の誤りに気付いたら、即座に指摘するのではなく、まず一呼吸置き、自分の感情に目を向けてみます。そして、自分に対して、ある問いを投げかけます。
「今、頭の中に浮かんでいる『相手の誤りを指摘する(したい)』という想いは、どこからやってきたのだろうか?」。さらに、考えを進め、「この誤りを訂正した場合、相手はどのような利益を得られるだろう?あるいはどのような不利益を回避できるだろう?」と問います。
もし、この問いに明確な答えを持ち合わせていないのなら、誤りを指摘するのはやめます。なぜなら、それは他人を指摘することによって、自分が優越感や自己重要感を得ることが目的になっている可能性が高いからです。相手を思いやる気持ちがそこには在りません。
2.誤りを観察対象と認識して、感情から切り離す
それでも、誤りを指摘したいという気持ちが収まらないときもあります。これはある種のいら立ちから来ている感情であるため、取り扱いに苦戦します。特に、自分の詳しい分野において、相手が勘違いをしている場合に起こりがちです。
そのようなときは、「誤り」自体を観察することに意識を集中します。次のような問いが役立ちます。
「今、目の前にいる相手は、なぜそのような誤りをしてしまったのだろうか?」「どのような環境や情報に影響されたのだろう?」
こうすることで、「誤り」がいら立ちの対象から、観察の対象へと切り替わります。そこに感情は存在しません。ただ、観察・分析するのみです。
議論したり反駁したりしているうちには、相手に勝つようなこともあるだろう。しかし、それは空しい勝利だ。相手の好意は絶対に勝ち得られないのだから。
相手を説得するために、正論など持ちだしてはいけない。相手にどのような利益があるかを、話すだけでいい。
ベンジャミン・フランクリンの名言
今後,セッションを継続していく上での“勝利”を目指す
専門職である私たちは、当然クライアントよりも専門領域の知識は豊富です。その知識量の差で圧倒し、こちらの意見を表面上、通すことは容易だと思います。
しかし、その表面的な勝利は、業務として今後セッションを継続することにおいても勝利と言えるでしょうか。一方的な議論を展開し、信頼関係の構築に水を差してしまっては、本質的な勝利とは言えないと思います。
人にものを教えることはできない。みずから気づく手助けができるだけだ。
デール,カーネギー(1999)『人を動かす』(山口博訳)創元社,p.168
まとめ
相手の誤りに気付いたときは、感情の勢いに任せて指摘するのではなく、いったん深呼吸をして落ち着く。そうして、自分の思考と向き合うことで、無用な議論を避けられます。それが、相手の好意を勝ち得る本当の意味での「勝利」なのだと思います。
よく考えていただきたい。理論闘争のはなばなしい勝利を得るのがいいか、それとも相手の好意をかち得るのがいいか -このふたつは、めったに両立しないのである。
デール,カーネギー(1999)『人を動かす』(山口博訳)創元社,p.161